古代豪族「巨勢氏」(こせ)が活躍した高取町 |
古代高取町には、町の東側旧城下町一帯に渡来人の「東漢氏」が、西側の紀路沿い大字市尾から御所市にかけて豪族「巨勢氏」の二大勢力が割拠していました。「東漢氏」については古代その1で解説しています。
古代大阪・河内平野を基盤に強大な王権を築いた応神・仁徳政権だったが、皇位をめぐって兄弟同士、叔父や甥、従兄弟同士で争いが度々起こり、後継の武烈天皇に子供がなく叔父や甥、従兄弟も死亡していて直系皇族断絶の危機に瀕しました。507年時の政権の有力者である大伴大連金村(おおとものおおむらじかなむら)、物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかい)、巨勢大臣男人(こせのおおおみおひと)が応神天皇の5世の孫といわれる越の国の王である男大迹王(おおどのおう)を大和に迎え継体天皇(けいたい)の擁立を図りました。528年には九州筑紫の国造磐井(くにのみやつこいわい)が反乱を起こし、継体天皇の命により男人は、金村、麁鹿火と共に将軍となり筑紫に赴き平定しました。これにより大和王権の国内統一が実現しました。
巨勢大臣男人の後を継いで大臣になったのは、同族の蘇我稲目(そがのいなめ)でそれ以後は蘇我氏が最高権力者に登りつめていきます。しかし645年中大兄皇子が蘇我大臣入鹿(いるか)を飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極殿(だいこくでん)において誅殺し、入鹿の父親である蝦夷(えみし)の反攻に備え法興時(飛鳥寺)を砦としてたてこもりました。将軍巨勢臣徳陀古(とこだこ)は中大兄皇子の命により、蘇我氏を支える最大の軍事氏族である隣人の東漢氏に君臣の義を説き、中大兄皇子の味方につかせました。東漢氏の離反により、蝦夷は甘樫丘(あまがしのおか)の邸宅に火を放ち自決し蘇我氏の時代は終焉を向かえました。徳陀古はこの功により左大臣に昇進しました。
711年には徳陀古の孫の邑治(こおおじ)は伊予守(現在の知事)に就任しています。野足(のたり)は、791年に坂上田村麻呂とともに征夷副使に任ぜられ、その後も昇進を重ね810年には最初の蔵人頭(くろうどのとう、平安時代初期に創設された。現在の法務部長)に任ぜられ812年中納言(現在の副官房長官)に昇進し、位階も正三位まで進みました。文雄(ふみお)は、紀伊守や越前守などを歴任し、位階は884年従四位下まで進んでいます。
巨勢氏は、大和・飛鳥・奈良・平安時代にかけて大いに繁栄した氏族です。 |
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